
バーでは時折ドラマテイックなことが起こる。
あの日がそうだった。激しい雨の日の夜だった。
一人の女性がずぶ濡れになって入ってきて、いきなり「人に追われている、かくまってほしい」という。一瞬躊躇したが私は彼女の申し入れを受け入れた。
長い髪と大きな瞳。雨と涙で震えている美女を無視できるほど私は強くない。
それから5分ほどたっただろうか、今度は男が飛び込んできた。彼もずぶ濡れだった。予想していた通り、店に女性が来なかったかと聞いた。丁寧な言葉使いに好感を持ったが、私は静かに首を振った。その時だ。男がフロアーにうずくまって泣き始めた。コントラバスのような呻きが店内に響いた。
こんな時は酒に限る。私は彼に一杯のモルトを差し出した。バッカスの神のおかげか、彼は少しずつわけを話し始めた。
自分が国会議員の息子で現在秘書をしていること、クラブのホステスと恋に落ち結婚の約束をしたこと、しかし父親が大反対、理由は彼女に死別した前夫との子どもがいることだった。
「自分の立場がわかっているのか。すぐに別れろ。手切れ金は事務所のものに届けさせる、お前は一切会うな」
彼は何度も説得したが、結局父親に押し切られその条件を呑んだ。
「でもやっぱり忘れられなくて、店の外で彼女が出るのを待ってたんです。そしたら彼女、僕の顔を見るなり走り出して。きっと、先回りして奴らが、金を。・・・・僕は最低です」
あとは言葉にならなかった。手の中の小さなモルトグラスが震えていた。
私は彼に、一杯プレゼントすることにした。カクテルの名はマルガリータ。塩を使う、いわゆるスノー・スタイルの名作だ。
「これはロスのバーテンダー、ジャン・デレッサーという男が、死んだ恋人マルガリータのために作ったカクテルです。詩人は言葉を紡ぎ、画家は絵を描き、バーテンダーはカクテルをつくる。うまくいえませんが、本気で人を好きになれるって、ただそれだけで凄いことじゃないでしょうか」
彼は私の言葉に何度もうなずいた。
「そうですね、今思えば、彼女といる時だけが幸せでした。あの時間を取り戻せるなら、僕はもう何もいりません」
ふとカウンターの奥をみると、今度は彼女が泣いていた。
私は改めて二人のためにマルガリータを作ることにした。
文●藤野正明
(イムリ・Barman)
バ-テン歴二十八年。