ブックタイトル趣人01
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趣人01
martini 「坂」といえば、亡き母を思い出す。戦時中、私たち家族は、疎開先鹿児島の山村に住んでいた。 産後の肥立ちが悪く、母は両耳が全く聞こえなくなっていた。八才の私は、自分の言葉を伝えるために、二人だけの手話をつくった。 例えば、「水」は握った両手をたたく変な手話であった。働き者の母は、毎日炊事に使う焚き木を取りに山に向かった。旧式の「かまど」に使うためだ。 山の入口に急勾配な坂があった。 坂の下には、小さな桶屋があり、その少し上に湧水が、勢いよく流れていた。幼い私は、自分の背丈より高い焚き木をしょった母を、坂の上まで迎えに行った。 桶屋のトントンと木をたたく音と、清水のはげしい水音を聞きながら、うす暗い坂道の上で何時間も待った。 木立ちがうっそうと生えるその場所は、恐くふるえて待った。救いはトントンと清水のリズミカルな音だけであった。 ?半ベソ?をかきながら、母の顔を見た時は、「わぁー!」と泣いてすがりつき、私も焚き木を背負った。 優しい母は、耳の聞こえないせいか、調子ぱなれの「愛染かつら」の歌と西郷どんの話をしてくれた。 母と並んで坂を下りた。いつのまにか夕暮れになっていた。母の焚き木は、「かまど」の中で、勢いよくパチパチと音をたてて真赤に燃えた。 十月の小雨ふる昼下がり「桜坂」を歩いていて母との事を想い出した。絵の具箱のひとりごと「桜坂」絵と文● 高坂昇(洋画家) 長い間酒場をやっていると、いろんなエピソードに出くわす。もっともバーテンダーはそれらの話を他言せず、自分の胸だけにしまっておくのがルールだから、今回編集部よりこのエッセイを書けといわれた時ひとつだけ条件を出させてもらった。それは全て匿名でお願いしたいということだ。ナナシノ・ゴンベエなどというふざけたペンネームの由来もそこにある。どうぞご了承下さい。 ということで「マティーニ」である。いやはやマティーニほどウンチクや逸話の多いカクテルはない。 そもそもドライ・ジンとドライ・ベルモットを最初に結びつけたのは、ニューヨークのニッカーボッカー・ホテルのバーテンダー、マルティニ・ディ・アルア・ティッジャ氏である。一九一〇年のことだ。それから約一世紀近くマティーニについてはさまざまな議論がなされてきた。なかでも一番多いのは、ジンとベルモットの割合だろう。 ヘミングウェイの【河を渡って木立ちの中へ】に出てくる十五対一の超ドライマティーニ。故チャーチル首相の、ベルモットのボトルを眺めながらジンを飲むという究極のハードスタイルなど、ほぼ無色に近いこの黄金色の液体は多くの男たちの心をとらえて離さない。 ある日のことだ。いつもは必ずひとりで飲みに来る常連のSさんが、若い男と一緒に私の店に入って来た。Sさんは某電気メーカーの部長で、イギリススタイルのスーツをこよなく愛する白髪の紳士。口数こそ多くないが、ぽつりぽつりと喋る会話の中にはいつもユーモアが滲み出てている、そんな人だ。 Sさんはその日、珍しく饒舌だった。「マスター、こいつ俺の息子。どうしようもない三流大学だけど今日卒業してね」 言葉とは裏腹に彼が心底息子の卒業を喜んでいるのがわかる。「でね、いつものアレをこいつにも」私は隣にいる端正な顔立ちをした若者を見ながら、Sさん好みのドライ・マティーニを二杯作った。 Sさんはマティーニを受け取ると、いつもよりも早いスピードで一気に飲み干した。「おやじ、そんな飲み方してると体壊すよ」息子さんがグラスに軽く口をつけながらいった。「バカヤロウ、マティーニはな、ちびちび飲むもんじゃないんだよ。お前も男ならそのくらいのこと覚えておけ」 嬉しそうな声でSさんが答えると、彼は父親よりもさらに早い速度で残ったマティーニを飲み干した。そして二杯、三杯と二人はまるで競うかのようにマティーニを飲み続けた。先に潰れたのはSさんの方だった。 彼は椅子の上で体を揺らしながら私にいった。「マスター、これからこいつが来た時はいろいろと教えてやってくれ。バカだけどいい奴だから」 父親の体を支えながら店を出ていく息子は、振り向きざま私にペコリと頭を下げた。 その恥ずかしそうな笑顔は、二十年前に亡くなったSさんの奥さんにそっくりだった。つまり貧乏とかハングリー精神を逆手に取るたくましさとか強さっていうのにいきの原点があるような気がしますね」川畑 「なるほどね。でもその江戸の庶民たちは自分たちの置かれた状況をそれなりに楽しんでるじゃないですか。遊びの精神っていうか。遊興っていうんですか、その遊びを楽しむ余裕っていうのがいきの文化を作り出したんじゃないのかな」万之丞 「興、今、遊興とおっしゃいましたけど、興という字は興がるといって、一番狂言を言いあてている言葉なんですよ。狂言の狂は狂うという字を書きますよね。あれはトランスする、日常生活から違う空間にパッと離れるということなんですよ。それから興じるっていうのは何か物事を楽しんでエンジョイして、ちょっと逸脱してゆがんだりはみ出したりしましょう。で、遊の遊ぶってのは昔は魂を静めるっていうのを遊ぶって言ったんです。だから、遊びながら、魂を静めながらみんなで換骨奪胎して騒ぎましょうと。それが一番供養にもなるし、まあ今でいうセラピーですよね。それがいわゆるお座敷という場所だったんです」川畑 「じゃあ、料亭でお酒を飲んだり食事をしたりするのは、魂を静めてるわけですね(笑)あっ、これはいいなぁ(笑)でもね、最近の若い人には料亭って敷居が高いでしょ。だから、その敷居を低くしてたくさんの人に料亭に来てもらいたいんですよ。こういう畳とか、障子、そして和紙とか、日本には素敵な文化があるじゃないですか。そういう文化をね、今の若い人にも是非伝えていきたいといつも思ってるんですよ」万之丞 「いやー僕はそういう家に生まれてきちゃったもんですから、もうそれこそ体の中に入ってますけど、今の人には、例えばお母さんがニンジン嫌いな子にはチャーハンにして食べさすように伝えないとダメでしょうね。つまり、どう細かく切ってわからないように体の中に入れこんでいくかっていうことをしてあげないと。いわゆるレクチャーですね。それをしないで、『ほらいいだろう、畳は』『ほら、いいだろう、床の間は』って言っても、潜在的な能力にそれがもう無いんですから」川畑 「ないかなぁ」万之丞 「やっぱり先割れスプーンでご飯食べて、足組んで体育館で校長先生の話聞きながら、靴穿いてハンバーガーでコーラでしょ。この生活をずっとやってきたから基本的には無いんじゃないでしょうか」川畑 「いやー、私はね、それこそ日本人っていうのは間違いなく日本人なんですから、例え時代が変わってもわかると思うんですよ。もちろん年齢もあると思うけど」万之丞 「そうですね、確かにいきっていうのは生きてるとか、意気込んでるとか勢いがあるとか、この言葉の語感にいろんなものが含まれていると思うんですけど、その感覚は日本人ならどこか理解出来るということはあるかもしれませんね」川畑 「私はそう信じてるんですけどね。やっぱりいきというのは、こういつも元気でスカッとしてて、そして人の心がわかる、世情っていうのかな、世情に通じてる人って気が私はしてるんですよ。だから若い人にもぜひそんな人になってもらいたい、もちろん中年にもですが、そのためには積極的にもっといろんなことに挑戦してもらいたいと思いますね。こういった料亭で時にはお洒落してご飯を食べるのもそうですし、万之丞さんがやってらっしゃる狂言なんかも、それこそ映画を見に行くようにふらっとのぞくなんて、いきだと思いますよ。この間、舞台を拝見しましたけど、若い人も多かったじゃないですか。えーと何でしたっけ、あのお相撲の話?」万之丞 「唐人相撲」川畑 「そう、あれを見て本当に面白かったし。若い人もたくさんいてね。私あれを見てて、こういったものを見川畑 「本日はお忙しい中、この対談のために駆けつけていただいて本当にありがとうございます」万之丞 「いえいえ、こちらこそ記念すべき第1号のゲストに呼んでいただいて嬉しく思ってます。でも、それにしても趣人っていうのはなかなかいいタイトルですね」川畑 「ありがとうございます。もともとはですね、私が遊び心で料理屋の趣人という名刺を作ったんです。それで今回、新聞を作ることになって、タイトルをどうしようかってことでスタッフのみんなといろいろ考えた挙句、これがいいだろうってことになって」万之丞 「いやー、なかなかいきなタイトルですよ」川畑 「そうですか。そもそもこの新聞を作ろうと思ったのは、いきな文化って日本にはあるじゃないですか、万之丞さんのやってらっしゃる狂言もそうですし、こういった料亭もそのひとつですよね。でも最近、そういったものがどんどん日本では失われている気がしましてね。もちろん時代も変わるわけですから、料亭も昔ながらのスタイルに甘んじていてはいけません。もっと垣根を低くしてたくさんの人に楽しんでもらいたいと思っています。でも、その根底に流れるものは守っていきたい。それで、『おしゃれな若者、 いきな中年』に読んでもらえるような、いきをテーマにした新聞を作りたいと思ったんですよ」万之丞 「あー、なるほど」川畑 「万之丞さんは古典芸能を受け継ぐ家にお生まれになって、私たちからみるとそれこそいきの集大成(笑)みたいなとこで育ってこられた気がするんですけど、万之丞さんにとっていきというのは、一言でいうとどんなものですか」万之丞 「まぁ、洒落でいうと、いきには必ず帰りがあると(笑)。それからいきがるっていいますよね、例えば東京なんかだと、どじょう屋行って一杯やるなんて今ならいきの一つだと思うんだけど、あれだって昔はうなぎが食えない庶民がどじょうを食ってたわけですからね。でもうなぎを食わずにどじょうを食うのがいきなんだっていって。る環境をもっとたくさん作っていかないといかんなってつくづく思いましたね」万之丞 「今おっしゃって下さったことは、僕らにはすごく切実な難しい問題でね。狂言には、『お客は意識しても媚びてはいけない』という言葉があるんですよ。一遍お客に媚びるとね、お客はこんなもんだと思ってしまう。垣根は低くしないとお客は入ってこない、でも低すぎるとお客はナメてかかる。この辺のバランスが難しいんですね」川畑 「それは私たちも一緒ですね。だから私も垣根は低くしたいけども、取り去ってはいないわけ。ここの桜坂観山荘もそうだけど、門構え、この雰囲気、そして仲居さんがピシッと着物着て接待をする、そういったスタイルは崩したくないわけですよ。う?ん、こうやってお話していくと料亭と狂言ってのは似てるのかもしれませんね」万之丞 「似てる、似てる(笑)」川畑 「まぁ、ある程度のルールですね、そのルールを理解した上で少し遊ぶ、逸脱する余裕、そこからいきが生まれるんでしょうね」万之丞 「そうですね、無礼講という言葉がありますね、あれはきちんとした一次会があってはじめて成り立つ言葉なんですよね。だけど今は世の中全部が二次会、つまり無礼講だらけになっちゃった(笑)これはいきとはほど遠いですね」川畑 「なるほど。一次会でもきちんと遊べる余裕、これがいきの極致かもしれませんね。そういう意味ではいきに達するにはある程度の年齢も必要ということでしょうね」万之丞 「そうだと思いますね」川畑 「そういう意味ではお父様の野村万蔵先生なんて、ほんといきな方ですよね」万之丞 「もういきすぎて(笑)」川畑 「もう雲の上ぐらいいきな人っていう感じかな。私ももっと年齢を重ねてそうありたいって思いますけど」万之丞 「それからいきの上にはですね、やっぱり僕、品っていうのがあると思います。いきだった人が六十を過ぎてきた時に、何がその人の背骨を支えてるかっていうと、やっぱり最後は品だと思いますね。で、うまく枯れて。でも表は枯れてるんだけど、中の芯だけはキチッとしてる、これが理想ですね」川畑 「ほんとにそうですね、いきから品へ。いやー今日は楽しいお話をありがとうございました。じゃあ、そろそろこの辺で一次会はやめて、無礼講といきますか(笑)」万之丞 「(笑)いいですね、いきましょう」川畑摩心の一期一会野村万之丞(のむらまんのじょう)1959年東京都出身。300年の歴史を持つ加賀前田藩お抱えの狂言、野村万蔵本家の長男として生まれる。1995年に万蔵家継承名、五世万之丞を襲名。万蔵家の八代目当主となる。現在、総合芸術家(演出・制作・研究・執筆・俳優)として広く国内外で活躍中。川畑康太郎/桜坂「観山荘」主人。 川畑裕次郎/ 「IMURI」オーナー。Text : ナナシノ・ゴンベエバ-テン歴二十八年。現在福岡のとあるバ-のオ-ナ-。ただし酒は弱い。「マティーニ」vol,1馬づら、めばる、かなとふぐといった外道達が餌取りをする。そこへいくとやはりプロは違う。「それじゃダメだ、たなはこうやってあわせないと」 戎本さんが手を貸してくれた。するとどうだろう、あっという間に鯛が掛かった。それを見て、黙っていうことを聞こうと思った。 鯛釣りも何度となく場所は変わったが、いわれるままに行動をした。二時間ほど過ぎただろうか、気がつくとすでに周りは夜と化していた。「もう今日はこれ以上は無理や。帰るぞ」戎本さんの一言で、漁港に戻る。実際釣りをしたのは一時間にも満たなかったが、胸の中は充実感でいっぱいだった。移動するたびに顔にかかる水しぶきや風は、今までに感じたことのないものだった。また、水面を滑るように飛翔する飛魚を見た時も感動を覚えた。想像していたよりも低空飛行で、何匹も群れになって飛ぶ姿は戦闘機を思わせた。僕にとっては初体験ばかりの楽しい夜釣りだった。 漁港に着くと、戎本さんは手際よく船上を片付け、釣った魚を絞める。活きのいい魚は、大きな籠網に入れ海の中で生かしておく。おそらく釣れなかった日に売る魚を確保しておくためだろう。たまには家に持って帰ってご飯のおかずにするのだろうかなとど想像する。 絞めた魚を旅館に持って帰れとバケツ一杯持たせてくれる。?こんなにいらない?といっても、?よか?の一言である。 戎本宅に着くとまずはビールに、焼酎。するとどうだろう、さっきまでの恐いおやじがまた気さくな顔に戻って、テレビの野球中継を見ながら昔話を始めた。たいした変わりようである。明朝は四時半集合、五時出発に決まり、明日の釣果は今日以上だという話に期待を残して別れた。 旅館に戻っての魚料理は、すごいものがあった。釣った魚は刺身に煮付け、塩焼き、汁と姿を変えて僕らの胃を満足させてくれた。またこれ以外にも、殻付きの雲丹、渡り蟹、アワビにサザエと魚介尽くしだ。さすがにこれだけ魚ばかり食べると?うっ?としてしまった。?なるほど魚ばかり出すのも良くないなぁ、特に刺身はほどほどが 記念すべき第一回目の取材は壱岐、一泊二日の旅。そして旬のお題は、「鯛」。釣り船に乗っての沖の一本釣りだ。期待で胸が躍る。 まず、壱岐の名物うに丼と戻り鰹の刺身で腹ごしらえ。戻り鰹の刺身は薄いピンク色をして脂ものり絶品だった。腹も落ち着き気合いも入って、今回の出港地、石田漁港をめざして車を走らせた。 我々のクルーは、まず今回の鯛釣りの先生である、漁師の戎本さん宅にお邪魔した。陽に焼けた褐色の肌、年輪を感じさせる皺の数々。戎本さんの顔には長年海で働いてきたという男の風格があり、一見近寄りがたい雰囲気だったが、いざ話してみるととても気さくで、「出港前の景気づけにまずは一杯やろう」と麦焼酎をいただく。そうなのだ、壱岐は麦焼酎発祥の地なのだ。 内心、船酔いを心配しながらも折角のご好意、ありがたく飲み干すといざ出発、いよいよ船出だ。 夕日が沈もうとしている海上を沖へと進む。吹く風がとても心地好い。 戎本さんは、潮と風、そして波の具合を見ながら魚場を探す。長年の経験と勘で遠い島や地形を頼りに船を操る姿は、とても感動的だ。ところが、魚場に着くと驚くことに戎本さんは、人が変わったように厳しい口調になった。その顔はすでに漁師、いや厳しい釣り師の顔だった。 まずは戎本さんが試し釣りをする。サビキの仕掛けに餌はオキアミ、たなを合わせて探りを入れる。すると八本ほどある、サビキの針にいさきが二尾付いて上がって来た。「よし、餌を詰めて海に入れろ」戎本さんの合図に、慣れない手つきで投入、釣り糸一本で魚のあたりを探る。?よし、きた?と糸を手繰ると三十センチぐらいのいさきが一尾ついてきた。なかなかの型である。?よし、もう一投?と思いきや、「はい、糸を上げて。移動するよ」と戎本さん。「もうここは釣れんけん、場所を変わるぞ」と船のエンジンをかける。 波に揺れる船にまだ慣れないうちに、あーしろ、こーしろと指示が飛ぶ。移動中も「餌を詰めんか」の喝の嵐。魚場に着くと「入れろ」の合図、すぐに投入、そして一回手繰ったらまた別の魚場に移動、これをなんと五回もくり返した。釣れる場所と釣るタイミングを瞬時に見分ける戎本さんの技はまさしく神技としかいいようがない。まるで海の底が見えるようだ。でも釣りを楽しむという雰囲気ではない。もちろんたくさんの魚を釣らせてあげようとする戎本さん流の好意なのだが、こんなに慌ただしくて釣り客が腹をたてないかなと、他人ごとながら少し心配になった。 さて、いさき釣りが一段落したところで、いよいよ今回のお題である「鯛」釣りが始まった。活きエビを使っての鯛釣り、針にエビを掛け投入、たなを合わせて誘いをかける。 ツンツン、魚が餌をつつく感触が手に伝わる、しばらくするとまたツンツンとつつく。?グッ?と引き合わせると魚が掛かり糸を伝わって海中で暴れるのが感じられる。四十メートルも糸を垂らした、見えない海中での魚との駆け引き。指先が真剣になる。しかしなかなか鯛は釣れない。ちょうどいいんだなあ?と、思ったりもした。でも最後に出た「かじめ汁」には感動した。東京のある役者さんが、この「かじめ汁」を長年追い求めていて、壱岐でやっとめぐり合い、幻の汁と呼んだそうだ。かじめは若芽より少し小ぶりの若草で壱岐周辺で取れるとのこと。今まで味わったことのない不思議な食感に心が躍る。 ぜひ自分のお店で何かおもしろい料理を考案しようと思った。 みんなで集っての夕食は酒も入ったせいか、大いに盛り上がり十二時にお開きとなった。 ほとんど寝るまもなく朝の四時、眠たい目をこすりながら起きたものの、迎えに来てくれるはずのSさんが来ない。無情に過ぎていく時計の針をにらみながら心はあせる。電話も通じない。「ごめんごめん、寝坊した。まあ、一杯やろう」やっと出会ったSさんは、開口一番そういうと、焼酎の入ったグラスを手渡した。 結局予定より大幅に遅れて船を出す。しかし戎本さんの〝この時間からは多分釣れんよ?の言葉通り、前夜をかなり下回る釣果だった。まあしかしそんなハプニングも〝旅の思い出?のひとつだろう。 当初の「旬を探す」目的がどこまで達成されたかわからないが、それでも僕は三尾の鯛を釣り上げることが出来た。残念ながら弟は運に見放された。果たして裕次郎の胸中はいかに? 今回の旅は「鯛を釣る」という目的もあるが、私にとってもう一つの目的は島の人々とふれあい、いろいろな話を聞くことだった。 なかでも漁師の戎本さんの話はとても勉強になった。「魚はすむ場所も、泳ぐ深さも食べる餌もすべて違う。一年のうち、何月に産卵をし、身が肥え脂がのるのかもすべて違う」「魚の捕り方も網で捕った魚と一本釣りでは価値が違う」「漁師は色や手触りで魚の善し悪しがわかる」など、戎本さんの話す一言一言に、頭でなく体で覚えた漁師さんの凄みを感じた。ところで今回戎本さんと一緒に漁を体験するのは、鯛といさき釣りである。鯛は日本の料理では冠婚慶賀の式に使うほどの、魚では最高級の食材である。 春に産卵をし、この時期の鯛は桜鯛として珍重される。しかしむしろ秋を越え冬を迎える頃の鯛の方が脂がのって味が良い。この季節になると、戎本さんは活きエビで鯛を釣るという。 鯛釣りは早朝、空がうっすらと明るくなり始めた時から、日が海面の十センチ上に昇るくらいの間と、日が沈み空が暗くなり始めて、一時間くらいが勝負で、他の時間ではなかなか釣れないそうだ。次にいさきだが、いさきの漁期は四・五月頃から十月頃までの魚で、この時期は味も良い。刺身はもちろんのこと、煮付け、焼き物、から揚げにいたるまで、どんな料理にも適した白身のうまい魚である。戎本さんはこのいさきを、おきあみ(小エビ)とサビキ(小エビの疑似針)で釣り上げる。船の上から魚群探知機を見ながら潮の流れを計算して釣りをする。 しかし最後に頼りになるのは長年の勘だという。さすがにその技は凄く、小一時間ほどで何十匹という魚をいとも簡単に釣り上げる。私も見よう見真似で挑戦したが、とても歯が立たない。「魚群探知機は大ざっぱだから」と笑う戎本さんの言葉がとても印象的だった。残念ながら私は今回のテ-マである鯛は釣り上げることが出来なかったが、戎本さんと出会って、それ以上のものをいただいたような気がする。「常に自然に感謝し、自然と共存していることを忘れてはいけない」魚を愛しそうに扱う彼の顔に刻まれた一本一本の皺が、私にそう語りかけてくれた。壱岐の思い出文●川畑裕次郎文●川畑康太郎川畑摩心(かわばたまこと)料理屋趣人。株式会社「観山」社長。えびすもと厳しい喝が飛ぶ。船上は戦場!意気揚々、船出の図。(左・康太郎、右・裕次郎)