ブックタイトル趣人01
- ページ
- 6/8
このページは 趣人01 の電子ブックに掲載されている6ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 趣人01 の電子ブックに掲載されている6ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
趣人01
「夢は見るものではない、夢は食うものです」二時間のインタビューの間、ステンドグラス作家、高見俊雄さんは何度もこの言葉を口にした。まさしくそれは高見さんの人生を象徴する一言だった。 中学生の頃、初めて「デザイナー」という職業を知り、絵で飯を食うことを決意。高校卒業後、デザインを学ぶために上京した。 以来、グラフィック、ディスプレー、ファッションと様々なジャンルの表現に携わるが、どれも自分の望むアートの世界とは違ったという。「結局、どれも直接商業に結びつくものばかりでしょ。それが僕には耐えられなかった。もっとアーティスティックなものを作りたかったんです」 しかし純粋なアートを求める高見さんの次に待っていたのは会社経営という実業だった。父親が倒れ家業の運送会社を継ぐことになったのだ。 そして一九七二年、第一次オイルショックの波を受け、会社は倒産。文字通り、何もかも失った高見さんは、この時初めてステンドグラスと出会う。三十四才の時だった。「これぞ僕の求めていたものだと直感しました。どうせ全てを失ったんだ、自分の好きな絵への夢をもう一度燃やそうと思ったんです」 試行錯誤の果てに見つけた表現手段。高見さんは以降、独学で自分だけのステンドグラス制作に没頭する。「それまでのステンドグラスはいわゆる様式美にのっとったものが多かった。僕の場合、自分の絵を伝えるのが第一の目的だったので、これまでにない抽象的な絵柄のステンドグラスが出来上がっていった。それがかえって新鮮だったのでしょうね」 高見さんの作り出すオリジナルな世界は、やがて多くの支持者を得て、数々の賞を受賞する。が、モノを作る 本当の喜びを知ったのは、難病の息子さんが生まれてからだという。「それまでの僕の作品はよく周りから怖いとか、きついっていわれてたんです。多分これまでのコンプレックスをエネルギーに変えて作っていたからでしょうね。いわば負のエネルギーですね。でも息子が生まれて彼が必死に病気と闘っている幼い姿を見るうちに、人間にとって一番大切なのは家族、そして人に対する愛情や優しさだと思ったんです。いや、息子が教えてくれた。ガラスはとてもデリケートなものです。生まれたばかりの赤ちゃんのように大事に扱わなければすぐに壊れてしまう。そんなデリケートなものを負のエネルギーで作ってはいけない。見る人が楽しく心が暖かくなるような作品を作っていくには、もっと人を愛し、心を磨くことが大事だ。それがガラスと息子が僕に教えてくれたことでした」 真っ直ぐに相手の目を見つめながら話す高見さんの表情は、おだやかで言葉の熱さと対照的だ。創作の秘密をかいま見た気がした。 最後に、高見さんにとってモノを作るというのは何なのかを尋ねてみた。「そうですね、作品と共に心と心を織り成すということかな。つらいことや悲しいこと、そして嬉しいことを重ねて出来上がるもの。僕にとって作ることは、夢を織り成していくことですね」 高見俊雄、五十三才。今なお夢を食い続けるアーティストである。欧米においてヴァイオリンは悪魔と乞食が弾く楽器とされている。悪魔の楽器かどうかはともかく、ヴァイオリンは不思議な楽器だと言わずにはおれない。まず、約400年前に発明され、300年前に完成されてしまったこと。「完成」とはこれ以上改良の余地がない、という意味である。そんなものが他にあるだろうか、寡聞にして私は知らない。完成したのはアントニオ・ストラディヴァリ。彼以降の製作者は、ほとんど彼の製作技術に追いつかなかったのである。良くて、彼の作品と寸分違わぬコピ-を作れた製作者が僅かにいる程度。そのコピ-のほとんどが、ストラディヴァリの偽物として出回っているという。ただしそのストラディヴァリに唯一比肩できると言われている製作者がいる。名前はグァルネリ・デル・ジェス。億単位の値が付くのは、この二人の作品だけ、と言えばわかりやすいだろうか。グァルネリは一族で弦楽器を作っていた。デル・ジェスの伯父に、マントヴァに住むピエトロ・グァルネリという人がいた。彼はヴァイオリンを作るよりも弾く方に興味があり、ヴァイオリニストとしても活躍していた。だから作品は少ないが、弾く立場が反映されてか、良質のヴァイオリンを遺している。私の持っているものが、その中の一つである。私はヴァイオリン弾きだが、実は演奏よりも作曲の方に関心が高い。「井財野友人」というペンネ-ムで、曲を少しずつ書いている。レヴェルは違うのだが、親近感を覚えるのは確か。「作品は少ないが、弾く立場が反映させてか、良質の作品を遺している」と言われてみたいものである。この楽器との出会いは偶然である。一目惚れで買ってしまったのである。しかも買った時期は結婚して間もない頃。家計のやりくりも大変な時期である。当然、家計に行くべきお金がヴァイオリンに回った訳だ。もしこれで家計がひっくり返ったら乞食への道は近い!また、ヴァイオリンをより上等なものに買い換えると弾き手の評価がなぜか上がる。「うまくなった」と言われるのである。ここに金を使わない手はない。しかし定価にして倍額程度のものには買い換えないとグレ-ドアップの効果はない。そして、ヴァイオリンは私より長生きする。最後にヴァイオリンを売るときは死ぬときだろう。その時、たとえ高額で売れたとしても本人がその金を使うことは当然できない。「やはり、悪魔の楽器だよ」と人は言う。 染付を一言でいえば、白い素地に藍色で絵付けをし、その上に釉薬をかけて焼き上げた器ということになるのですが、これがなかなか奥が深い。技法や、素材、それぞれの作家の個性の違い、また、明るい藍色からくすんだもの、黒っぽいものなど、その種類は様々です。 絵付けひとつとってみても、手描きとプリント、プリントしたうえに一部手描きを加えるものなどいろいろですが、私個人としては、やはり作家が自ら焼き手描きしたものをおすすめしたいと思います。 それではプリントと手描きをどこで見分けるかですが、最近はプリントの技術も発達しているのでこれがまたなかなか難しい。 本当は良い作家の作品をたくさん見て自分の勘を養うのが一番なのですが、強いてあげればということでいくつかの見分け方をご紹介しましょう。 まず、ひとつは価格。例えば二十センチほどの丸い皿が 二千円以下であれば、これはほとんどがプリントと思っていいでしょう。また、五客揃いなどのセットものの場合、プリントと違って手描きは微妙に色合いが異なっているので、色を確認するのもひとつの方法です。染付けの魅力はこの作家の遊び心をいかに楽しむかに尽きると思います。 次にどんな器を選べばいいかということですが、初めての方にはそば猪口などはどうでしょうか。そば猪口は江戸時代末には完成されていた器で、当時からめん類はもちろん湯呑、向付、小鉢、調味入れと、多容器として使われていたので、用途はアイデア次第で限りなくあるはずです。 料理皿などの場合は、四季折々の絵柄を揃え季節に応じた旬をのせるというのも、染付ならではの楽しみ方でしょう。ご存じのように九州には伊万里、有田など、素晴らしい染付の技術が息づいています。ぜひ自分の目でじっくり作品と対話しながら、あなだけの器を選んで下さい。器道楽ものづくり人探訪私のこだわりの逸品文●福田博幸(ギャラリー蔵もと店主)文●原田大志ステンドグラス作家●高見俊雄 日本の秋を彩る代表的な花といえば菊を思い出します。今は栽培されている菊(家菊)ならいつでも手に入るため、とりわけ季節を感じる人も少ないのでしょうが、やはり最盛期は秋。日本の山野には可憐な野菊が咲き乱れます。 菊は生け花ではよく使われますが、一般的には供花のイメージが強いのか、特に若い人にはあまり人気がないようです。ちょっと見方を変えてみて、気軽にいけてみてはいかがでしょうか。お気に入りの酒器に白い野菊をちょんと一輪。ちょっと大きめの花入れになら他の秋草もまぜていけてみる。尾花、桔梗、女郎花、吾木香……。色とりどりの小菊や中輪菊をざっくり編んだカゴに遊ばせるように入れてみるのも楽しいですね。菊をいける時には、葉との調和を考えてみる事も大切です。どうしても花の美しさだけにとらわれがちですが、あらためて見てみると葉もなかなか美しいものです。菊の葉には独特の香りがあり、水揚げの際、金気を嫌う菊は鋏を使わず水中で手折るのですが、指先に移った菊の香りはすがすがしく、花の美しさだけではなく、秋の香りも一緒に楽しむことができるはずです。 華やかな家菊と山野に自生する風情のある野菊。 それぞれ同じ菊でもいけかたもその時々で変えたいものです。しかしどちらも日本の歴史のなかでもっとも愛され、その気品ある姿から詩歌や工芸品などさまざまな芸術や文学作品を生み出してきました。 室町時代には菊にまつわる、こんな物語も作られています。花を愛する「かざしの姫」は、庭の籬(まがき)の菊の花を特に愛していました。秋が深まるにつれ、移ろっていく菊の姿を哀しみ、まどろんでいるころ、姫の目の前に美しい青年が現れます。ふたりは恋に落ち、毎夜逢瀬を重ねることになります。 ある時姫の父は、帝より花揃えの宴に菊を所望され、庭の籬の菊を差し出そうと考えます。 その日の暮方、物思いに沈んでいる様子の青年は姫に逢うのは今日限りと告げ、形見に鬢の髪の毛を切り、それを紙に包み手渡して去って行きます。哀しんだ姫がその包みをあけてみると、「にほひをば君が袂に残しおきてあだにうつろふ菊の花かな」という一首とともに、青年の髪の毛と思われたそれは、萎んだ菊の花びらとなって残されていました。 姫が恋した名前も知らない青年は、庭の籬の菊の精だったという悲恋の物語です。・・・・・ 季節感の乏しい現代の暮らしのなか、菊の精などとても現れるはずもありませんが、ときにはひとり、秋の野山をかざしの姫になったつもりで歩いてみて、美しい菊を探してみるのも、また心の贅沢。その風情を楽しんでみてはいかがでしょうか。文●田中智子(フラワーコーディネーター)高見俊雄/ステンドグラス作家。日本現代工芸美術展入選、九州グラスアート展優秀賞をはじめ多くの賞を受賞。また、難病の子どもを支援する会「がんばれ共和国」に参加するなど、福祉活動にも力を注ぐ。福岡市在住。(ちょくさい) 王維(唐)空山人を見ずただ人語の響くを聞く返景深林に入りまた照らす青苔の上原田大志/東京芸術大学大学院修了。現在、福岡教育大学助教授として後進の指導にあたるかたわらヴァイオリニスト、作曲家として活躍中。