ブックタイトル趣人03

ページ
4/8

このページは 趣人03 の電子ブックに掲載されている4ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

趣人03

川畑摩心の一期一会第2回中村翫雀(なかむらかんじゃく)1959年京都生まれ慶應義塾大学法学部卒父・中村鴈治郎、母・扇千景の長男として生まれる1995年、中村翫雀を襲名川畑摩心(かわばたまこと) 2005年には四代目中村鴈治郎を襲名予定料理屋趣人/株式会社「観山」社長わけですから。他にうけるものといえば大衆演劇でしょ。そういう意味では本来歌舞伎は、大衆演劇と同じ位置にあったものなんですよ。だからもっと気楽に楽しんでもらえると嬉しいんですが、なかには『見に来て下さい』っていうと『じゃあ勉強してから伺います』っておっしゃる方もいて(笑)、そのへんがつらいとこなんですけど」川畑 「でもその方の気持ちもわかるなぁ(笑)。日本の伝統文化っていうことでつい構えちゃうのかもしれませんね」翫雀 「大丈夫です、どうぞ気楽に観て下さい。それも出来るだけ数多く(笑)」川畑 「11月は博多座でしたよね」翫雀 「はい、5日から26日までやります。今回やる『通し狂言小笠原騒動』っていう芝居は、それこそ歌舞伎の原点である娯楽がいっぱい詰まった作品です。早変わり、宙のり、それに本水を使った水車小屋での立ち回りなど、歌舞伎を初めて観る方にも楽しんでもらえると思いますので、ぜひ足を運んで下さい」川畑 「わかりました。11月5日から博多座ですね。ここ、太字にしておきますから(笑)。ところで翫雀さんは聞いた所によると、昔は歌舞伎役者になるつもりはなかったそうですね」翫雀 「はい、全然なかったですね。一応8歳の時に初舞台は踏んでそれから小学校の間は出てましたけど、それっきりで、中学、高校の間はまるっきり出てません。というのもうちの父は子供は学業優先という考え方だったんですよ。だから芝居よりもまず学業をちゃんとしろと。そういう感じだったんです」川畑 「じゃあこの道を改めて選んだ時は大変だったでしょう」翫雀 「もう大変も大変、穴がいくつあっても足りないくらい(笑)だって三味線の稽古を始めたのも僕、20歳になってからですよ。周りみたらみんなもうすごいわけですよ。ただ、役者っていう商売は70、80までやれるでしょ。だからその時までにはなんとかブランクを克服出来ると信じてやってますけど」川畑 「翫雀さんは男と女役の両方やられますよね」翫雀 「はい、大体うちの家系はどっちもやることが多いですね。それも若い頃女形やってて、で、タチ役にまわるというパターンが多いですね。というのも若い頃女形やっておくと、タチ役をやった時にちょっと色気があるんですよ。柔らかい体の使い方が出来るっていうか、それは大きな強みになるみたいですね」川畑 「なるほど、男の色気は柔らかい体に宿るってわけですか」翫雀 「江戸の勇壮活発な荒事に対し、うちの家系は上方のいわゆる、やわらかい和事系なんです」川畑 「荒事の気風を具現したのが初代の市川団十郎ですね。隈取りで見得をきるという」翫雀 「そうです、対して和事を代表する役者が沢田藤十郎です。そしてその沢田のためにたくさんの芝居を書いたのが近松門左衛門なんです」川畑 「その藤十郎をお父様の鴈治郎さんがおつぎになるとか」翫雀 「はい、団十郎が代々続いているのに対して、藤十郎は途絶えてしまってますからね。上方の歌舞伎のためにも、これだけ大きな名前をこのままにしてはいけないという気持ちが父にはすごくあるんですね。近松ものをやるために近松座を建てたぐらいですからね、近松と藤十郎への思い入れはとても強いんですよ」川畑 「お父様のことをお聞きしたので、あわせてお母さまの扇千景さんのことも聞きたいんですが。どうですか、お母さまが大臣になられて」翫雀 「う?ん、僕としては特別な感慨はないですね、たまたま役者の女房が後から政治家になったっていうことですから。第一母が女優やってた頃から、家族バラバラの生活で、ほら役者っていうのはずっと巡業まわってるでしょ、現に僕も今ここで一人でいるわけですし、もちろん父もそうだし。だから昔からあんまり会ってないんですよ(笑)。自分の女房子供にも会えないぐらいですから」川畑 「息子さんの壱太郎さんにもこの道に進んで欲しいですか」翫雀 「いや、彼にヤル気があればね。いやいや出来る商売じゃないですから」川畑 「そろそろお時間が来たみたいですね、最後に何かあれば」翫雀 「ぜひ11月の博多座に足を運んで下さい(笑)。楽しい歌舞伎をお見せします」川畑 「わかりました。もう一度そこのところ、太字にしておきましょう(笑)。今日はお忙しい中、ありがとうございました」翫雀 「こちらこそ、ありがとうございました」川畑 「今日は公演の合間におしかけてどうもすみません」翫雀 「いえいえ、こちらこそ慌ただしくて申しわけありません」川畑 「今回は八千代座の平成こけら落としということで来られたわけですが、どうですか、この劇場は」翫雀 「いいですね。舞台と客席の距離がものすごく近いでしょ、だから臨場感が全然違いますね。花道にしても普通の劇場に比べて高さが低いから、出ていった時にお客様の中にどーんと入っていくような感じがしていいですね。考えてみれば本来花道っていうのは、これが一番自然な形なんでしょうけど」川畑 「地元の方々の熱い想いがこうして八千代座を復興させることになったわけですけど、やはりいいものはこうしていつまでも残しておくべきですね」翫雀 「ほんとにそうですね。こういった場所でやらせてもらうと歌舞伎の原点のようなものを改めて感じますね」川畑 「それはどういう」翫雀 「基本的に歌舞伎というのは庶民の娯楽です。能、狂言が貴族いわゆる限られた教養のある方々のものだったとしたら、歌舞伎は、民衆の楽しみとして生まれたものなんです。この劇場もいってみれば温泉街の娯楽施設としてあったわけでしょう」川畑 「そうですね、温泉と商工業で栄えた旦那衆が明治43年に作った劇場ですからね」翫雀 「でしょ、そこで歌舞伎やったりしてうけてた●お客様中村翫雀さん●聞き手川畑摩心 また、この時期に収穫される富有柿が一番甘くておいしいとのこと。今年は気候が良かったので収穫量も多いそうだ。 天敵は、長雨や冷夏、台風。ただしこればかりは自然との戦いで仕方がないが、毎年悩まされるもうひとつの天敵がいるという。 それは「柿泥棒」。確かに道の両側にはおいしそうな柿がたわわに実っている。しかも手を伸ばせばすぐに届く距離だ。ひどい者になると、車で乗りつけて取っていくそうだ。 田中さん曰く、取られたどうかは枝を見ればすぐに分かるとのこと。実のもぎ方が力任せで無理やり取っていった形跡が残っているらしい。 柿のもぎ方にはコツがあり、力を入れなくてもポロッと取れる方法がある。実は我々はそのコツを教わったのだが、杷木町の皆さんのためにもここでは公開しないでおこう。 とにもかくにも今年は豊作で、おいしい柿が手に入る。 料亭では果物としてだけではなく、柿なますや柿釜などを作り季節を演出するが、今年はきっと格別の味だろう。 最後に田中さんから伺ったおいしい柿の選び方を記そう。 色が鮮やかで固いものがいいそうだ。ぜひ参考にしてみて下さい。 味覚の秋、今回我ら兄弟が向かったのは富有柿生産日本一、福岡県が誇る朝倉郡杷木町。朝倉郡は福岡県の南部、筑後川流域に位置する農業が盛んな所で生産物も豊富だ。中でも柿の生産は多く、出荷市場としては東京につづいて福岡などに年間約一二OOトン、柿一個が約二五Oグラムだから、数にするとなんと五OO万個も出荷しているそうだ。 さて十月八日小春日和、長崎・大分道を東に向かって車を走らせた。やがて「柿のまち杷木町」と書かれた大きな看板が左手の丘の上に見えてきた。すでに周りの山や平地は柿の木だらけでいたるところに実が成っている。 〔JA筑前あさくら〕の日野さんの案内のもと、我ら一行は生産者の田中さんの柿畑へ足を運んだ。ご夫婦で柿の収穫をされていた田中さんに少しだけ手を休めてもらい、お話を聞いた。 「杷木は柿作りに最適な場所なんですよ。盆地で、寒暖の差が激しいが、そのわりに霜があまり降りない。だからつねに日当たりが良くて土壌も肥えているんです」 そんな杷木の町でもここ志波の柿が最もおいしいと田中さんはいう。 毎年五月に白い花を付け、夏を越す。夏の間に太陽の光をいっぱいに受け実が成る。収穫時期は九月から十二月までで、順に安田、伊豆、松本、富有という種類の柿が成るそうだ。僕らが行った時はちょうど伊豆という早生柿を収穫していた。 でも柿畑が一番美しいのは十一月の中旬からだそうだ。 色づいた柿の実と紅葉した葉があたり一面をオレンジ色に染めるという。川畑康太郎/ 桜坂「観山荘」主人川畑裕次郎/「IMURI」オーナー  このカクテルの歴史は古い。創作は1915年。イギリスの文豪サマセット・モームが愛したシンガポールの名門「ラッフルズ・ホテル」で考案された。モームが“東洋の神秘“と讃えた、この国の夕焼けを表現したカクテルだ。 ジンとチェリー・ブランデーをメインに、レモンジュースとガム・シロップで甘みと酸味を加える。アクセントは、夕陽に見立てたさくらんぼ、マラスキーノ・チェリー。 いわゆるトロピカルカクテルの傑作で、本来なら夏が似合う飲み物なのだが、私の店には冬になると必ずこのカクテルを注文するお客様がいる。 お客様の名前はNさん。大学で電子工学を教えていらっしゃる先生で、年齢は49歳、少し長めの髪と二重の大きな目が特徴だ。 「そろそろシンガポールスリングお願いしようかな」 「ああ、もうオーストラリアは夏ですか」 Nさんのオーダーが入ると私は決まってそう答える。 5年前のことだ。Nさんは仕事の都合でオーストラリアに単身赴任していた。2年間という期限付きなこともあり、病弱の奥様を日本においての赴任だった。 広々としたキャンバス、おおらかな国柄。お互いをファーストネームで呼び合う教授同士の気さくな雰囲気に、Nさんは驚いたという。そして8ヵ月後、馴染みのパブも出来てこちらの生活にも少し慣れた頃、Nさんは一人の女性と出会う。 彼女は同じパブの常連で、ブロンドの髪が美しい30代の女性。「初めて会った時からドキっとしてね。僕は研究が忙しかったせいもあって女性に恋した経験がほとんどないんですよ。妻ともお見合いだしね。恥ずかしい話、遅咲きの恋でした」 誠実なNさんの気持ちが彼女に通じたのか、2人はまるでティーンエイジャーのようにデートを重ねた。 夏のオーストラリア。紺碧の海。彼女にリードされトライしたダイビング。ロングボード。そして、海辺のバーで何度も飲んだシンガポールスリング。彼女の一番好きなカクテルだった。 何もかもが生まれて初めてのことばかりで、毎日が嘘のように楽しかった。しかし2人は一線を越えることはなかった。 彼に病弱の奥様がいたように、彼女にも心臓の病気で入退院をくり返す息子がいたからだ。 「私だけが幸せになるわけにはいかない」それが彼女の口癖だった。同じような境遇にいる彼は彼女の気持ちが痛いほどわかった。 やがてNさんは帰国し、2人の間は徐々に疎遠になった。以来、Nさんは年に一度だけ、冬のこの時期にシンガポールスリングをオーダーするようになった。 私は彼がこのカクテルを飲む時だけは、何があっても話しかけないようにしている。 なぜなら私の声は、南半球の夏にはとても不似合いだからだ。「シンガポールスリング」文●藤野正明(イムリ・Barman)必見!「通し狂言小笠原騒動」 11/(5月)~11/2(6月)まで。博多座でお待ちしています。早生柿・伊豆。とにかくおいしかった!柿談義にふける裕次郎。康太郎、柿を愛でるの図。生産者の田中茂喜さん。