東京の寄席公演が決まるたびに、葉書を送ってくれる律義な落語家、それが古今亭菊之丞師だ。いつも手書きで、今回はトリを務めますなどのメモが添えてある。
ところがひとたび高座に上ると、自由で闊達、とくに女性を演じると色っぽさが香り立ち、背景に粋な江戸が広がる。
師匠の名エッセイ「こういう了見」には、「落語はあたしにとって、惚れぬいてるとんでもなくいい女。大好きだし、尽くしているのに、すごく冷たいときがある。オレはこんなに好きなのになぁって、いっつも悩んでいる」とある
律義と粋が共存している不思議は、落語を愛し悩んだ末に生まれた結果なんだとこの本を読んで思った。
入門当時は作り話ひとつできず、師匠の園菊師から、「何か話はねえのか」と問われあたふたし、「じゃあ、今日、おまえの家からここの来るまでに面白いことはなかったのか」と突っ込まれても言葉が出ない。さらに「じゃ、バス停からオレんちまでで何か話してみろ」といわれ、「さあ……」としか返せないでいると、「もう一回バス停まで行って来い!」。
仕方がないので、雨が降るなか傘をさしてバス停まで行って、また戻ってきて、でも何を話していいのかわからない……という時代があったそうだ。
平成15年に、席亭推薦でひとりだけの華々しい真打昇進を果たし、数々の賞を受賞した今の師匠を見ていたら信じられない話だが、その努力が顔に出ていないのがいい。苦労知らず、柳に風といった風情がいい。いつも湯上りのような色っぽさで軽やかに江戸前の落語を聞かせてくれる、古今亭菊之丞師。
今、見ないと損な落語家のひとりだ。
高坂圭
放送作家・脚本家・物語プランナー。主な作品、映画「千年火」「卒業写真」
ブログ:「圭さん日記」